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| 한국과 일본의 문화 |

제목: Kとその時代 (1)
분류: 일본문화
이름: 申鉉夏


등록일: 2020-08-07 09:39
조회수: 250 / 추천수: 46












           Kとその時代(1)




 

                                   申 鉉 夏


                                    元 大学教授  

                                    緑風会 員 

      



今からちょうど七十年前のことである。



一九四五(昭和二十)年四月下旬、太平洋戦争における日本帝国の敗戦がひしひしと迫っていた時分である。短波ラジオ放送でVOA(アメリカの声)(注1を聴いていた韓国人は、日本帝国の敗戦をとうに感知していたが、口外もできず互いに目と目で語り合っていた。当時旧制師範学校上級組だった私達は,老兵まで召集された日本人教員の欠員を補うため、教育動員の名目で道(注2)(県)内の各国民学校(小学校)に分散配置された。私の配置校は幸い郷里にある母校のY国民学校だった。







母の懐にでも抱かれる思いで戻った母校は、ありし日の懐かしい学び舎とはあまりにもかけ離れ、あたかも兵営のような雰囲気に包まれていた。校舎の屋上には「忠君愛国・米英撃滅」の大きな看板が掲げられ、日の丸鉢巻姿の児童達が列をなし歩調をとって下校していた。自慢だった校庭周囲の桜の木は根こそぎ掘り起こされ、代わりに軍に納める()の油を採るため荏胡麻(えごま)が植えつけられていた。中でも異様に眼に映った光景は、校庭の片隅で諸式訓練を受けている青年の一群だった。案内する教員の説明によれば、彼らは当面(村)内の今年度徴兵適齢者で、召集される前の予備訓練を受けているとのことだった。教官は日本帝国陸軍予備役伍長のS郵便局長だという。




私の配置申告を受けた初対面のU校長は、 五十代後半の半白髪で小太りのエネルギッシュな御仁だった。後日知るようになるが、陸士出の前途有望な青年将校で軍旗手でもあったご子息が、フィリピン戦線で名誉の戦死を遂げたとのことだった。「息子の仇を討たねば」と意気込んでいたU校長は、毎朝ご子息の形見の軍刀を帯びて出勤するほど、誰もが認める徹底した軍国主義者であり、誰にも負けぬ必勝の信念保持者だった。太平洋戦争の終息が近付いた頃、アメリカのル-ズベルト大統領の死が報じられるや、教務室で「天皇陛下万歳」を三唱し周囲の視線を集中させた。




十余人の教員中、U校長と近視で兵役免除のN教諭、それに女学校出のS教諭の三人が日本人で、残りは韓国人で占められていた。そのうち、師範学校教育を受けたのは私と国民学校同期生のM嬢の二人だけで、男子教員は二年制職業学校出の代用教員が多く、何人かの女子教員も女子高等学校(女学校)出の代用教員だった。歯が抜けたせいなのか不明瞭な発音のU校長は、五学年の学級担任と青年特別訓練所教官を命じた。予想通り教室での正規の授業はほとんど行われず、山野での松根採取や草刈などの作業が日課だった。後になってうすうす感じ取ったのだが、当時未婚で身軽な若造だった私は、U校長からは手ごろな用兵とみなされ、一目を置かれているふしがなくもなかった。




一九四二(昭和十七)年六月五~七日のまる二日間、南洋のミッドウェ-島で展開された海戦(注3で大敗した日本軍は、大本営(注4発表とはうらはらにその気勢が急速に挫き始めた。当時中国および南方各地に戦線を広げていた日本帝国は、消耗する兵力補充のため韓国でも徴兵制実施を強行した。一九二五(大正十四)年生まれが第一期徴兵適齢者だったが、思わぬ障碍が立ちはだかって当惑することになる。それはもっぱら朝鮮総督府の教育政策のもたらした結果で、徴兵適齢者の中に日本語の不自由な者がいたのである。朝鮮総督府は急遽青年特別訓練所令を制定し、韓国人徴兵適齢者に諸式訓練と日本語の特訓を課すことになる。




日本帝国の植民地と化して三十四年経った当時も、韓国では普通学校の義務教育がいまだ実施されず、一面一普通学校設立方針が完全施行に移されたのも、一九四〇(昭和十五)年に至てやっとのことだった。それまでは比較的大きな面には六年制普通学校が一校、山村の小規模な面には四年制普通学校が一校、それより田舎の面には二年制簡易学校があるだけだった。したがって二,四年制簡易、普通学校を終えた児童の中には、六年制普通学校に通うため遠距離通学をするか、あるいは隣村に留学するほかすべがなかった。このような韓国人に対する教育行政の実態に反し、日本人の多く居住する郡・面においては、日本人子女だけの小学校、高等小学校、中学校・女学校が別に設置されていた。そして上級学校入試などにおいても、日本人志願者の合格者数を割当てるなど、教育面での民族差別も甚だしいものがあった。




当時普通学校入学に年齢制限はなかったが、学校が遠くにあり通学路も山道が多かったので、普通学校入学年齢は九歳がほぼ適齢とみなされ、甚だしくは十二,三歳の新入生も少なくなかった。私も数えの九歳で普通学校に入学し、蛇行する小川を五度も渡る五キロの山道を六年間往復した。一方学校が小規模なので入学児童数に制限があり、その上相当な額の月謝を納めねばならなかったので、山村の貧しい児童達にとっては高いハ-ドルだった。当時農村では人力と牛力が主な労働力で、牛の手綱を操られる年頃の男子は即労働力とみなされ、普通学校四,五学年男子児童の中退者が多かった。




当時の韓国社会には、「男尊女卑」・「男女七歳にして席を同じゅうせず」などの旧習が残存し、女子児童の就学率は男子児童のそれに比べ極端に低かった。当時農村における就学児童の男女比率は、ある統計によれば三対一ほどだったとされている。このようなことからして、日本帝国植民地から解放される間際の統計でも、日本語の読み書きがある程度可能であり、日本語での会話に不自由しない韓国人は、男女平均して全人口の二割程度だとされている。韓国に徴兵制度が施行されはしたものの、日本語の通じない兵士の混じった軍隊を想像すれば、風刺漫画を見ているような滑稽さである。




私の配置校の青年特別訓練所では合宿が行われていた。隣の面では合宿までには至らなかったようだが、当面はU校長の強引な主張で合宿に及んだという。U校長の主張によれば、合宿により訓練日数を半減させて帰農を早めるのが、銃後の農村への援けになるというのである。なるほどそれにも一理があるように思えたが、合宿施設設備状態は劣悪そのものだった。その上季節が七,八月の猛暑期だったので、特に食べ物の補給と保存には全くお手上げだった。一方農繁期に働き手が特別訓練所入りした農村では、これまでにも増して反日感情がくすぶっていた。




青年特別訓練生の中の一人で、日けた顔の小柄な青年が主人公の「K」である。洛東(ナクトン)(注5の向側にあるK氏集姓村(注6に住む彼は、父親早く亡くなったせいで普通学校四年で中退し、農業従事するかたわら漢学を学んでいるという。なるほど彼の漢文の素養には私も及ばぬものがあり、名門K氏門中宗家(家元・本家)の宗孫だけあって、物腰に凛とした気迫が感じとられる若者だった。宗家の家系を継ぐのはもっぱら男子なので、男児を早く授かるようにと早婚させられたが、いまだ子宝に恵まれず肩の荷が重いと語っていた。彼とはなんとなく馬が合いそうな気がした。




うだるような暑さの八月初旬のある日の夜、残務を片づけやれやれと背伸びをしているところへ、七十近くに見える老婆が近づくのに気づいた。意外と臆することなく明瞭な口調の老婆は、独り息子の「K」が当訓練所に入所中なのを明かし、「先生、今夜息子の種を採りに来ました!」と言うではないか。「なに!息子の種を採りに…ですか?」「はい。自分は川向うのK氏門中宗家の宗婦で、数年前に不幸にも宗孫だった夫と死に別れ、四十過ぎに授かった息子を頼りに農業をやっています。今ここで訓練を受けている息子は、このまま軍隊に引っ張られて行くと覗いました。息子は宗孫なので早目に跡継ぎをと嫁を娶らせましたが、なぜかいまだ孫の顔を見ることができず、このままではご先祖様に合わせる顔がありません。息子がこのまま軍隊へ行き戦死でもしたら、宗婦の責任を果たせなかったで嫁は実家に追い返されます。」一瞬旧習の「七去之悪」(注7ということばが脳裏をよぎった。老婆が続けて言うには、「一週間後には息子が家に帰れると言いますが、先生は日本人の言うことを信じますか。どうか今夜息子の種を採らせてください。あのように嫁も同行させています」と、拝まんばかりに訴えるのだった。




その時までは気づかなかったが、戸外に小さな包みを抱えた若い女性が立っているのが認められた。「あっ、そうだったのか!息子の種を採るというのは…。」当時未婚だった私には、老婆の言い分がすぐには解せなかったが、若い女性の姿を見て話のすじがようやく飲み込めた。だがことの次第をわきまえぬ老婆は、息子の訓練所への入所を即入営と勘違いしている。先ずこの誤解から解さねばと思った私は、訓練所の事情を丁寧に説明し納得させようと試みた。




「ちょっとお待ち下さい。あなたの言い分はよくわかりました。でもあなたは何か誤解をなさっておられます。ご子息は訓練が終わればただちに帰宅されます。あなたのご子息は召集令状が届いて始めて入営するのであり、それまでは前と同じく安心して農業に従事できます。私は朝鮮人です。朝鮮人の私の言うことを信じてください。そして訓練中は外出も許可されませんので、今夜はどうかお戻りください。」そして彼女に脅しをかけるつもりで、「もしこのことが校長や警察官駐在所の日本人巡査部長に知られたら、ご子息にどんな罰が下るか分かりません。私の話を信じて今夜はどうかお戻りください。ご子息は来週中には必ず家に帰えされますから…。」




そうするうち私の方が頭を下げてお願いするはめにおちた。このような応答を繰り返すこと半時間余り、彼女達の帰る渡し舟の運行はとうに止まった時刻であるいつの間にか私は、自分が次第に老婆の味方になりつつあるのを感じ始めた。「さて、どうすれば良いのか?」しばらく心の中で策を練っていた私は、「よし、やって見よう!」と決心した。そして先ず「K」に急な腹痛を訴えるよう言いつけ、「とにかく校長と相談して見ますから…」と言い残し、一か八かやって見ようと思いつつ校長官舎へ急いだ。




眠たい眼をこすりながら応対に出たU校長に、急患の訓練生をただちに入院させねばならぬと、日ごろ私に対する厚い信頼に賭けて進言した。私の説明が終わるや否やU校長は、「よく分かった。このことは君に任せるからよろしく頼む!」と明快に答えてくれた。やったと合宿所に取って返した私は、待ちわびている老婆にことの次第を告げ、「これからは私の言う通りに行動し、一言も勝手に口を利いてはならない。」と強い口調で言いつけた。腹痛を訴える「K」に安心するよう目配せし、丈夫そうな入所生に負わせて村の病院へ直行の上、訓練所で急患が出たことを院長に告げさせた。




村に一か所しかない医院の院長は私と同姓で、この町の公医であり普通学校の校医でもある。父と同じ行列(注8なのでおじ貴にあたる先生は、温厚で腕利きの医師としての評判が高く、国民学校六年間身体検査を受けて馴染んでいた。Y国民学校開校以来初の師範学校合格者だった私は、卒業式当日院長から記念品をいただいた。そのように信望の高い温厚な医師だったが、日本人妻を娶ったかどにより門中から厭われ、宗親会や先祖の祭祀などにはあまりお顔を見せなかった。 




同行した老婆とお嫁さんを門外に待たせ、「K」の仮病が見抜かれはしないかと気にしつつ、
夜分の来院をお詫びしよろしく頼むと頭を下げた。しばらく患者の様子を診ていた院長は、「はっきりはしないが急な食あたりのようだ。鎮痛剤を注射するので痛みはすぐ楽になるだろう。消化剤を出すから指示通り飲むように…」と言い、一晩様子を見るから同医院指定の旅館に泊まるよう指示した。入院室が
1室もなかった同医院では、裏にある旅館を緊急時の入院室に指定してあった。「K」の入室を最後まで見届けて戻った私は、すべてを天に任せた気持ちで一夜を明かした。翌朝の早暁、気まずそうな顔で戻った「K」の姿を確認し、周囲の皆がふっと安堵の胸を撫で下ろした。




訓練を終えた「K」が帰宅して間もなく、八月六日と九日、広島と長崎に新型(原子)爆弾が投下されたと新聞が報じた。つづいて十日にソ連軍が北朝鮮に侵攻し始めたとの報があり、ついに八月十五日、日本帝国は太平洋戦争において連合国に無条件降伏した。三十五年間待ちにまった民族解放の瞬間である。




郵便局長官舎でラジオの玉音放送を聴いて戻ったU校長は、沈痛な面持ちで青年特別訓練所を解散させ、無言のまま職員に対し深々と頭を下げた後、校長官舎に戻ってからは姿を見せなかった。翌朝復学挨拶に校長官舎を訪れた私にU校長は、「これから独立する朝鮮には、君のような優秀な人材が大いに役立つだろう。しっかり頑張れよ!」と励ましてくれた。




日本帝国敗戦の報に接した韓国人は半信半疑だった。日本帝国の敗北をうすうす感知してはいたが、このような形でその日が来るとは想像だにしなかった。何をどうすれば良いのか誰も知らなかった。歴史の轍が止まったかのようなしじまの中、直に吹き荒れる東西冷戦の嵐の前の静けさの中で、三十五年間日本帝国に虐げられて来た民衆は、じっと息を凝らし触覚だけを尖らしていた。十六日の新聞で事の詳細を知った韓国人は、十七日になるやにわか作りの大極旗(国旗)(注9とさまざまなのぼりを押し立て、男女老若を問わず声を嗄らして「朝鮮独立万歳!」・「大韓独立万歳!」を絶叫した。 




「K」の部落からもデモ隊が組まれ市場に陣取った中に、日の丸(赤丸)の下半分を勾玉型に青く塗った鉢巻姿の「K」がいた。市場に雲集した男女群衆の誰もが、次々と押し寄せるであろう歴史の津波を知る由もなく、ただただ解放の歓喜に酔いしれているだけだった。




復学し卒業準備に追われていた頃届いた母の便りに、「K」の種が間違いなく採られたが書かれてあった。そして祖国が日本帝国から解放されて一年後、母を伝に「K二世」の誕生の知らせが届けられた。郷里を離れ都市部で教鞭を取っていた私に、「K」から格調高い漢文調の丁寧な礼状が届けられた。その後「K」とは何度か対面する機会があったが、私を師のごとく遇し礼を尽くして接してくれた。また旬の山菜や果物を母のもとへ持参したご母堂は、「先生のお蔭で待望の孫を得た」と恩に着ていたそうである。新生の「K二世」は聡明にして丈夫に育ち、誠実勤勉な「K」のお蔭で家勢も隆盛しているとのことだった。




一九五〇(昭和二十六)年六月二十五日未明、人民軍(戦争当初の北朝鮮共産軍の呼称)が北緯三十八度線(注10を突破し武力攻撃をかけてきた。未曾有の同族相食む六・二五韓国戦争(戦争当初は六・二五動乱と呼称)の勃発である。ソ連製タンクを先頭にした計画的な人民軍の総攻勢に、無防備の韓国軍は作戦上後退を余儀なくさせられ、戦争開始三日後には首都ソウルが敵の手中に落ちた。




たまたま出張でソウルに居た私は、六月二十八日の早朝、人民軍の砲声を背に機能の麻痺した市街地を駆け抜け、郷里に向かって南下するため(ハン)(注11の岸辺にたどりついた。首都ソウルと南部を結ぶ唯一の橋梁だった漢江の人道橋は、二十七日夜半に爆破されて無残な残骸をさらし、雲集した避難民の群で河畔は阿修羅場と化していた。漢江に架けられた鉄橋から数百メ-トル下ったところで小船を見つけ、初老の船頭に船賃の倍を越す額の紙幣を握らせて河を渡った。早くも大統領府と政府の中枢機関はソウル南方のS市に遷され、難を逃れて南へ向う避難民は長蛇の列をなしていた。




東西冷戦のもたらした韓国戦争は、韓国軍・国連十六か国軍と北朝鮮の人民軍、それに中共軍(中国共産軍)により第三次世界大戦の様相を呈し、わが国土を戦場に血みどろの激戦が繰り返された。当初不利だった戦況の中でも私達は、この戦いで南北を分かつ北緯三十八度線は自然消滅し、国土と民族が統一された独立国家成立を夢見ていた。だが東西両陣営の駆け引きの末、一九五三(昭和二十八)年七月二十七日、南北が分断されたまま休戦協定が結ばれて六十有余年、民族悲願の統一の夢は叶えられぬまま今日に至っている。三年におよぶ戦争は終結したものの、国土は荒廃の極に達して目を覆いたくなり、数百万に上る戦死傷者と行方不明者、そして一千万を数える南北離散家族を生み、加えて計り知れない数量の物的損害までも被った。                                                                                                                                         




戦争初期の七月初め私は、職場に駐屯していたH師団政訓部長Y大尉の懇請で、同師団政訓部要員として現地召集された。そこで与えられた任務は、戦況を取材し『勝利』なるがり版刷の報道物の製作配布である。当時韓国軍は、繰り返される作戦上の後退で戦意は喪失しがちであり、部隊の編成も正常な状態が維持できなかった。国連軍の参戦により戦線が落ち着くまで、どのようなことをしてでも防衛線を死守せねばならぬ。現在どん底に落ちた兵士の士気を昂揚させ、次第に遠のく軍に対する国民の信頼を取り戻し、反撃の日が来るまで戦意を維持させねばとのことだった。




取材班は当然ながら直接戦闘には加わらないが、任務遂行のため弾丸を潜り抜けることも少なくなかった。生死を分かつ戦闘員の過酷な任に比べれば楽だったが、それでも真夏に軍用テントか民家の物置が兵舎であり、それとていつ後退するやも知れぬ状況の連続である。原紙の蝋が溶けてがり版の目が詰まり閉口するなど、作業員達の苦労とて並大抵なものではなかった。そのような中で、八月中旬のある日、同師団三大隊付き先任下士官の教え子からの伝言で、「K」が同師団憲兵隊に所属していると知らされた。目に見えぬ彼との格別な絆に、つくづくと感じさせられるものがあった。









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