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| 한국과 일본의 문화 |

제목: 帰化の将「沙也可」、金忠善になる (1)
분류: 한국문화
이름: 申鉉夏


등록일: 2020-09-17 15:06
조회수: 151 / 추천수: 39




帰化の将「沙也可(さやか)」、金忠善(キムチュンソン)になる



 



                                  申 鉉 夏



                           



帰化の将「沙也可」、金忠善になる



もと日本人の「沙也可(さやか)」(一五七一~一六四二)は、壬辰倭乱(文禄の役、一五九二)の時日本軍の将として先鋒に立っていたが、朝鮮に帰化して日本軍を攻撃する先鋒に立った特異な経歴の持ち主である。彼は朝鮮に投降した倭軍の将として功を立てたし、金海金(キムヘキム)氏と忠善という名を賜り賜姓金海金氏の始祖となった。かくして日本人の「沙也可」は朝鮮人の金忠善になる。



倭乱が終った後現在の大邱(テグ)広域市達城(タルソン)嘉昌(カチャン)友鹿(ウロク)里に定着し,ここで家訓と郷約(ヒャンヤク)(自治規約)などを作って施行した。李适(イグァル)の乱1(一六二四)丙子胡乱2(一六三六~三七)などでは自ら出陣して功を立てたし、著書に『慕夏堂(モハダン)文集』3があり多数の筆跡を残している。金忠善が郷に入った友鹿里はその子孫達が代を継いで居住し、その空間は金忠善の追慕と韓日文化交流の場として活用されている。



 



朝鮮における金忠善の生涯



金忠善の本貫4は金海、字は善之(ソンジ)、号は慕夏堂である。もとは日本人で名字は沙では也可である。父は沙益、祖父は沙沃国、曾祖父は沙と伝わっており、夫人は牧使(地方の行政官)を務めた張春点(ジャンチュンジョム)の娘仁同(インドン)張氏である。



一五七一年一月三日、日本で生まれた沙也可は、壬辰倭乱が起きると加藤清正軍の右先鋒将として参戦した。開戦初期の一五九二年四月二十日、慶尚(キョンサン)道兵馬節度使5)朴晋(バクチン)宛に、「自分は不出来でもなく自分の軍隊が弱いのでもないが、思うにこの戦が名分のない戦であり、文物が日本に先立ち学問と道徳を崇め尊ぶ君子の国を踏み付けることができないので、朝鮮に帰服する」という書状を送り、兵卒三千余名とともに自ら降って帰化した。沙也可の帰化理由を大きくまとめると、一つは尭舜三代6)の遺風を思慕して東方聖人の民になりたいためであり、次に一つは子孫を礼儀の国の人として継承したいためであり、最後に一つは日本の朝鮮侵略になんら名分がないと思った平和主義の思想のためであった。



当時倭軍の中には朝鮮に投降して倭軍と対峙して戦った者が多かったが、朝鮮に投降した日本軍を降伏した倭軍として「降倭」と称した。降倭は日本軍の事情を正確に把握するのに援けになったし、鳥銃をはじめとした日本の武器に関する技術と情報を伝授してくれる有用な存在だった。普通降倭は戦況が悪くて投降するのが大部分であったが、沙也可は彼らとは違った存在であった。



その後降倭として慶尚道観察使(今の道知事)(キム)()麾下で活躍しながら、東萊(ドンネ)梁山(ヤンサン)などで軍功を立てて嘉善大夫7)に叙せられた。一五九三年、周囲の奏請で金海金氏と忠善という姓と名を賜り資憲大夫8)に昇った。金忠善は壬辰倭乱の最中鳥銃・火砲・火薬の製造法を朝鮮軍に教えたし、慶尚道雲峰(ウンボン)などの戦闘で軍功を挙げもした。



降倭の将金忠善がいうには、戦争に勝とうとするならなによりも武器が良くなくてはならぬ。ところが朝鮮軍の武器を見回すと精密さが足りず、この武器で敵を撃破するのは不可能に近いと判断した。それで自分の知っていた鳥銃と火砲など日本の武器製造技術を伝授し、戦闘に活用しようと努めたのである。



学界では朝鮮内の鳥銃を李舜臣(壬辰倭乱当時の朝鮮側海将)が普及したものと見るが、当時金忠善が李舜臣と交わした書信の中に、「すでに鳥銃を開発して訓練しています」との記述があるのを見れば、開発と量産自体は金忠善がしたものと見られる。二十世紀に入り慕夏堂の屋敷を修理する際、垣根の中に隠されていた鳥銃が発見された。



一六○○年、当時の慶尚道大邱都督府友鹿洞に定着し仁同張氏と婚姻した。一六○一年、友鹿洞に慕夏堂を建てたし、その翌年には家訓と郷約十五条を作った。一六○三年には仍防訴(じょうぼうそ)9)を上奏して女真族防備の対策を開陳したし、自ら国境防衛を志願して十年間要害地を守護した。一六一三年、その功を認められ正憲大夫10に昇り友鹿洞にもどった。



一六二四年、李适の乱が起きるや部下を引き連れてこれを鎮圧した。この時适の副将である徐牙之(ソアジ)を金海で斬首したのだが、徐牙之も同じく降倭の将出身であった。适の乱が鎮圧されると功として賜牌地11を授かったが遠慮し、守禦庁12の屯田として使うようにした。一六二七年、清国が攻めてきた丁卯胡乱、13一六三六年、同じく丙子胡乱が起きると自ら進んで参戦した。特に丙子胡乱では京畿(ギョンギ)広州双嶺(グァンジュサンリョン)で清軍を撃退した。



二十二歳に日本軍の先鋒将として朝鮮に従い付き、六十六歳に至るまで多くの功績を積んだ金忠善は友鹿洞にもどり、一六四二年、享年七十二歳でこの世を終えた。墓地は大邱広域市達城郡嘉昌面友鹿里鹿洞(ノクドン)書院14)の裏山に位置している。一八九二年、正憲大夫兵曹判書兼知義禁府訓練院事15)に贈職された。



 



金忠善に対する認識



朝鮮時代



朝鮮時代の金忠善に対する認識は、『宣祖実録』16)と『承政院日記』17など官撰記録を通じて確認することができる。『宣祖実録』には「僉知(チョムジ)18「沙也可」、『承政院日記』には「降倭将金忠善」または「降倭領将金忠善」などとそれぞれ表記され、壬辰倭乱との乱で活躍した彼の功績が記録されている。降倭として積極的に活躍した彼に対し政府もまた強い印象を受けたように思える。それを裏付けるのがその功労を認定して政府から授かった褒賞である。彼は壬辰倭乱の時の活躍で嘉善大夫と資憲大夫に昇り姓と名を賜った。後に丁酉再乱(慶長の役、一五九七)と北方女真族の侵略に対備して防衛に尽した功を認められ正憲大夫に昇った。李の乱ではその功が認められ賜牌地を賜ったが、固辞して受けなかったのは前述の通りである。



朝鮮政府から官職を賜った金忠善は、以後郷村地域内で一定の影響を及ぼしたとみる。当時の在地士族たちはその一つに、書院の建設と運営により自分達主導の郷村支配秩序を維持するため活動を展開した。書院建設においてもっとも重要なのは祭祀の対象、すなわち書院に祭った人物の性格である。国家からその功労を認定された人物の彼は、十分な社会的地位をもっていたと見てよい。その結果一七九四年、彼の後裔達と域内の儒林達は鹿洞書院を建立した。この書院で彼を追慕すると同時に、書院を中心に郷村社会活動を展開して行ったのである。



一方金忠善の後孫金漢祚(キムハンジョ)が、始祖の文と筆跡を集めて『慕夏堂文集』(一七九八)



を刊行した。一八世紀後半の英祖(朝鮮二十一代王)・正祖(同二十二代王)の時期、壬辰倭乱当時武功のあった人物を顕彰する事業が活発に行われた。彼の後孫達もまたこのような時代的流れにしたがい『慕夏堂文集』を刊行し、彼の存在を朝廷と郷村内に確固たらしめようとしたのであろう。これを契機に金忠善のことを伝える人物伝が出始めた。



 



開港期19日本帝国植民地期



開港期~日本帝国植民地期にも金忠善に対する関心は持続された。一八九二年は壬辰倭乱が勃発してから三百年に当たる年で、国内に当時を回顧する雰囲気が造成された。ここに金忠善の子孫達と地域の人達は贈職を賜与し饗礼を行えるように朝廷に上疏し、前述したように兵曹判書兼知義禁府訓練院事の職が贈られた。ついで彼の詩文集である『慕夏堂文集』が刊行された。  



このほかに安鐘和(アンジョンファ)の『国朝人物志』(一九○七)をはじめとして、朴殷植(バクウンシク)謙谷(ギョムゴク)文稿』(一九○○年代)の「金忠善」、朴義成(バクイソン)が編纂した『紀年便攷(びんこう)(一九一七)毎日新聞記者宋淳燮(ソンスンソプ)が書いた『奇人奇事』(一九二一~二二)など、金忠善する作家達関心された。だが『国朝人物志』と『奇人奇事』などは、日本帝国植民地期という時代的背景により禁書指定された。



一方日本でも金忠善に対しある程度認識があったように見えるが、本格的な関心と研究がなされたのは日本帝国植民地期からである。だが金忠善の存在自体を否定するか日本に対する反逆者として理解するなど、当時の時代的状況が反映された研究が大部分であったようだ。また彼の後裔達の証言によれば、日本帝国植民地期酷い暴力はなかったけれど、友鹿洞に日本の警察が来るか売国奴とか非国民の後裔だとして(ののし)るなど、後裔達を嫌がらせることが多かったようである。



蛇足ながら太平洋戦争の真っ最中、筆者等は何度か友鹿里を縦貫する道路を往来したことがある。春・夏は軍事教練の一環としての野外演習や行軍、秋には背嚢代わりに麻袋を背負っての松かさとりの進軍であった。戦争が長引くにつれ石炭の配給量が激減した当時、代用に松かさをスト-ブにくべて教室の暖をとっていた。その都度目にする鹿洞書院の門はいつも固く閉ざされていたし、心なしか村全体が何かに(おび)えて息を潜めている感を否めなかった。



だが先年日本の友人と鹿洞書院を訪ねた際は、書院の門は明るく開放され参拝客も多く出入りしていたし、友鹿里全体には生気が(みなぎ)って昔日の暗い面影は感じられなかった。同時期のこの村の雰囲気を覚えている筆者には、さもありなんとの思いがひしひしと感じられた。



 



解放20~韓日協定締結後



一九四五年、韓国が日本帝国植民地から解放され、一九六五年、韓日協定が妥結されてから新たな韓日関係が構築された。このような時代的背景の中で金忠善に対する再照明と再評価がなされた。わが国の場合、一九六八年、方基煥(バンギファン)が『倭将沙也可』を発表したし、日本では一九六四年、『東京新聞』に「韓国に帰化した日本武将の子孫」という記事が乗せられてから、韓日両国間に金忠善に対する関心が高まって行った。



特に金忠善に対する大衆的関心を呼び起こしたのは、 一九七一年七月から一九七二年一月まで総二十八回にわたり、『週刊朝日』に連載された司馬遼太郎の「街道を行く・韓のくに紀行」のためである。釜山(プサン)を出発して金海を経由する伽耶旅行、新羅旅行、百済旅行順に展開される紀行文で金忠善は新羅旅行編に現れる。この紀行文によって金忠善は日本で大衆的な認知度をえられたし、日本帝国植民地期の否定的・懐疑的だった評価が転換される契機を迎えることになる。



壬辰倭乱四百周年を迎え、一九九○年代、金忠善に対する研究と各種行事が韓日両国間で行われた。韓国では一九九二年、鹿洞書院境内に壬辰倭乱四百周年記念神道碑が建立されたし、一九九八年、鹿洞書院の左側に韓日交流の場である忠節館を開館した。同年中学校の道徳教科書に金忠善が収録されたし、慕夏堂思想研究会(後に金忠善研究会に改称)が発足されて彼に対する学問的研究基盤を用意し、『金忠善(沙也可)韓日国際シンポジウム』(二○○五)、『朝鮮通信使四百周年記念金忠善(沙也可)韓日国際シンポジウム』(二○○七)などが開催された。二○一二年には鹿洞書院右側に韓日友好館が開館され、地域民達と日本人観光客の訪問が続いているという。



日本でも金忠善を主題にした小説と放送コンテンツが製作された。一九九二年、NHKの『歴史発見』プログラムで、「朝鮮出兵四百年秀吉に反逆した日本武将」というドキュメンタリ-が放送された。また一九九三年には神坂次郎の『海の伽倻琴(かやこ), 一九九六年には長谷川つとむの『帰化した侵略兵:朝鮮の役異聞』、一九九九年には江宮隆之の『沙也可-義に生きた降倭の将』などの小説が出版された。ついで一九九九年には高等学校の教科書に金忠善が収録されたという。このほかに金忠善の日本出身地に推定されるところの中の一つである和歌山県には、二○一一年、紀州東照宮境内に沙也可記念碑が建立されたと聞く。



 



金忠善の持つ現代的意味



日本人として生まれ朝鮮人として生きた金忠善は、当時の朝鮮政府や朝鮮人達に大きな印象を与えた。また彼を祀った鹿洞書院は、友鹿里を中心に後裔達が郷村秩序を維持し郷論を形成する求心的役割をした。



わが国が日本帝国植民地から解放された後、金忠善は新たな韓日関係が模索される過程で再解釈、再評価を受けた。そして両国で多様な研究と文化コンテンツなどが製作される中で大衆達の関心も高まった。このような点からして、韓日両国の平和的な友好関係を構築するための架け橋として、彼の持つ歴史的意味と役割はまことに大きいと言えまいか。始めは降倭だとの理由で日本で否定的な評価を受けたが、最近では平和を愛した平和主義者に再評価されながら、鹿洞書院と達城韓日友好館を訪問する日本人の数が増えているという。まさにこの地域こそは、韓日関係を改善し友好の歴史を積み上げる歴史的空間として活用すべきである。



だが今まで金忠善の持つ歴史的・文化的意味に比べ、韓日ともに関連研究が不足なのが現実である。彼に対する関連資料としては、『朝鮮王朝実録』21と『承政院日記』などに載せられた断片的な記事と『募夏堂文集』が全部で、光復(日本帝国植民地からの解放)後の微々たる研究や放送コンテンツがある程度である。今後韓日両国の学者と研究会が協同して彼に対する学術的研究を持続するかたわら、多様な文化コンテンツを生産して大衆達の関心を高めるべきである。



敷衍すべきことは、日本帝国時代の植民史観は王朝実録など朝鮮の記録を非曲直を問わず(けな)したし、日本の学者達は金忠善に対し朝鮮で作り出した架空の人物と思う傾向が濃厚であった。一言で学術的に水準が大変低いのみならず、すでに有効でないと判定された学説に根拠して作成されているというのだ。現実には、集姓村22(友鹿洞)後裔達の遺伝子検査で韓国人とは異なる日本人の遺伝的特徴が発見され、韓国のKBS歴史スペシャルで放送されもした。



同時に金忠善を媒介に両国間の民間交流を活性化させるべきである。すでに友鹿里に位置する韓日友好館と和歌山県の沙也可記念碑建立で、大邱広域市と和歌山県との間の友好的基盤が造成された。これを機に韓日友好増進のため金忠善と友鹿里を活用すべきではなかろうか。



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