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| 한국과 일본의 문화 |

제목: 韓(朝鮮)半島と日本古代文化(1)
분류: 한국문화
이름: 申鉉夏


등록일: 2020-08-24 11:26
조회수: 134 / 추천수: 37




韓(朝鮮)半島と日本古代文化



 



 



申 鉉 夏



                               



三韓・三国と日本古代文化



紀元前一~二世紀ごろから三~四世紀にかけて、韓(朝鮮)半島の南部に位置していた政治連盟体(部族連盟)の辰韓・弁韓・馬韓を三韓と称し、日本ではこれら三韓などをひっくるめて「韓国(からくに)」、または「(から)」と称している。後にこれら三韓は、それぞれ新羅(しらぎ)高句麗(こうくり)百済(くだら)に併呑されることになるが、三韓が日本古代文化に及ぼした影響は著しい。



同時代韓半島には、北部から中国大陸の東北部にまたがって国を建てた高句麗、その東南部に国を建てた新羅、そして、その西南部に国を建てた百済の三国が鼎立していた。これら三国は互いに勢力を競い合い角逐していたが、韓国史ではこの時代を三国時代と区分けしている。



当時の韓半島周辺の情勢を垣間見れば、北方の高句麗は漢四郡(注1)と中国大陸東北部の国々を平定し国土を大いに拡大した。高句麗の好太王は、国土を拡張しかどで広開土大王と名づけられた。特に中国大陸の隋・唐と覇権を競って角逐し、大国隋を滅亡させる動機を作った。騎馬民族の後裔で仏教が盛んであったし、日本に仏教を伝えたとされる僧慧慈(ヘジャ)は、聖徳太子の師匠だったと言い伝えられている。



西南方の百済は、立地条件として肥沃な(ハン)江・(クム)江・栄山(ヨンサン)江流域に位置し、国土全域が平野なので食糧の確保には事欠かず、 農耕文化と鉄器文化が発達したところである。海上力を掌握して海上交易の中心地として活躍し、支那大陸沿岸や日本との交易が盛んだった。高句麗と同じく騎馬民族の後裔であり、仏教が盛んで日本の仏教文化の指導者の役割をした。後述するごとく、多くの人が日本に渡来して文化発展に大いに貢献した。



東南方の新羅は、 国土が山脈に取り囲まれていて山地が多く、その上度々倭の侵略を受けて海岸線を荒らされ、三国のうち一番遅く発展した国である。伝統宗教が強く盛んだったため仏教の受け入れが遅く、僧異次頓(イチャドン)の殉教があってやっと広まり始めたが、三国中もっとも華やかな仏教文化を花咲かせた。漸次農業が発達し政治制度が整備されて行った上、 和白(ファベク)制度(注2)花郎(ファラン)制度(注3)などによって内政が確立し、対外貿易が隆盛し唐との交流により文化が高まった。七世紀後半、唐と同盟を結び百済と高句麗を併合して三国を統一し、民族国家形成の基盤を構築して文化を一段と高めた。



韓半島の居住民は、すでに先史時代(紀元前六~七世紀)から日本列島に活発に進出し、古代日本の政治と文化に大きな影響を及ぼした。紀元前二世紀前後、弥生文化に大きく影響を及ぼしたのは次の三つとされる。



1.稲作文化の伝授により食料が改善せれた。



2.鉄器(青銅器)文化の伝授により農機具・武器・漁猟具・生活道具が発達した。



3.土器文化の伝授により生活が改善された。



の代表的なのが須恵器である。須恵(すえ)器の「ス」と「ヱ」を同時に早口に発音すると「セ(swe)」となり、韓国語での「()(鉄)」を意味する。すなわち須恵器は、従来の日本土器に比べ鉄のように固い土器だとの意である。



だが、大陸の学術・思想・技術が直接的に日本に伝授され、日本の古代文化を一



段高い段階に引き上げるのに大きな役割を果たしたのは、やはり高句麗・百済・新羅三国の先進文化である。三国は互いにも文化を交流し合いながら、それぞれの個性ある文化を日本に伝授する供給源となった。



中でも百済は、個性的な文化の日本伝授にもっとも大きな役割を果たした。そのわけは、三国中日本ともっとも地理的・政治的に連結され、親善関係が維持されていたからである。およそ四世紀中葉、阿直岐(あじき)が渡日して皇太子に漢字を教えたし、ついで王仁(わに)が論語と千字文を伝え経史を教えた。ここに日本の漢字熱が益々旺盛になり、多くの百済人学者を招聘するにいたる。当時先進の百済からは儒学だけでなく、陶磁器・機械・図画・易学・暦学・医学・天文地理・陰陽五行及び工芸美術・仏教などいろいろな学問と技術が伝授され、飛鳥(明日香)文化形成の原動力となったとみる。



北方の高句麗は、地理的・政治的関係が疎遠だったので、百済のように頻繁な交流はなかったけれど、僧侶を通して文化面に少なからぬ影響を与えた。中でも僧慧慈は聖徳太子の師匠であったし、同じく僧曇徴(タムジン)は五経と絵画を始めとして日常生活道具の製作を教え、法隆寺金堂の壁画を画いたと伝えられている。そして、僧慧灌(へグァン)は日本三論の始祖になったし、僧道澄(トウジュン)も三論を講じて日本仏教に大いに寄与した。



南方の東海(日本海)に面した新羅は、日本と地理的にもっとも近かったので軍事的対立が激しく、文化伝授はそれほど活発ではなかったようである。しかし、造船術と築堤術を日本に伝授したし、陶磁器製造術と医学・仏像などを伝え日本文化の発展に少なからぬ影響を与えた。



 



天孫降臨と飛鳥文化時代の幕開け



『古事記』上つ巻〔天降(あも)り〕に、「この豊葦原(とよあしはら)瑞穂(みずほ)の国は、(いまし)知らさむ国ぞ」とあるのをみれば、天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)高天原(たかまがはら)から降臨するのは、日本に稲作文化が伝播された後であるのが分かる。ちなみに「瑞穂(水穂=みずみずしく実った稲穂)」は、江南・華中・韓半島南部から渡来したのは明らかである。



ついで邇邇芸命の『(みことのり)』に、「竺紫(ちくし)日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)(神秘な峰)に天降りて」、「此処は韓国に向ひ、笠沙(かささ)の御崎に真来(まき)通りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉(はなはだよ)き地。」とのたまひてとあって、伊都国(いとこく)の繁栄とか加耶の遺跡などが集中しているのがみられる



福岡県糸島半島の前原(まえばる)は、古代伊都国のソウル(()(ウル)=首都)であったとみる。九州地方では「(はら)」を「バル」と読んでいて、前原・春日原(かすがばる)屋形原(やかたばる)などがその例である。バル(原)は韓国語での「(ボル)(伐)」で原・野原・都邑の意があり、徐羅伐(ソラボル)慶州(キョンジュ))・達丘伐(タルグボル)大邱(テグ)などがその例である。また、「布留(ふる)」は、蘇夫里(そふり)背振(せふり)早良(さわら)・久士布流(ソホル)のように韓国語でのソウルの意である。



前原にある可也山(かやさん)は、韓国の釜山(
プサン
)
金海(キムヘ))空港からそう遠くない加耶山(カヤサン)=伽倻山(()()(サン))と同じ読みで、久士布流多気ではなかろうかとする。金海市近くにある「亀旨峰(クジボン)구지봉くしほう=クシムルノミネ)」は、紀元前後から六世紀にかけての加耶王朝の発祥地である。一方、金海はつまり金官加羅、伊都国の対岸が加羅すなわち加耶である。



邇邇芸命の『詔』に「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りて」とあって、この久士布流の「フル」も「ソウル」の「フル」とみる。そして、「此処は韓国に向ひ」とあり、ここでいう「韓国」は加耶を指している。その上伊都国の繁栄とか加耶の遺跡が集中していることなどから考え、邇邇芸命の『詔』はまさに伊都国あたりから発せられたのではなかろうか。ちなみに「加耶」は、文献記録によっては()(ヤ )(加耶・伽耶・伽倻)・()()(加羅)・()(ラン)(加良)・()(ラク)(駕洛)・()()(狗邪)・ (イム)()任那(みまな))などいろいろな名称で伝わっている。



五十代桓武天皇が、「百済王らは朕が外戚なり」といったことでもわかるように、古代日本と百済は深い愛情と濃い血縁関係をもっていたといえよう。ちなみに桓武天皇の母君は、天智天皇の孫である白壁王(しらかべのおおきみ)(のちの光仁天皇)の妃の百済系高野新笠(たかののにいがさ)(新笠姫)であり、京都市北区にある平野神社の主神である。 



京都市北平野宮本町に座する延喜式名神大社平野神社は、高野新笠との深い神社である。平野神社の祭神は今木神・久度神・古開神・比神の四座で、平安京遷都によって京都に遷座した。今木(いまき)神の今木は今来(いまき)(今来た)のことで新米の渡人を意味する。平城京時代田村後宮にあった今木大神は、高野新笠山部(やまのべ)親王(桓武天皇)祭祀していたことが判明している。



一九八九年九月、韓・日交流史上初に日本を訪問した韓国大統領に対し、日本の天皇は韓・日交流史を振り返りながら、「遅れて国家を形成した日本が、六~七世紀に韓国から教わった学問・文化・技術を深く感謝する」、という趣旨のお言葉を述べられた。文化は高いところから低いところへと流れる習性がある。



喜田貞吉博士は、天皇家の祖先は扶余・百済系であると言明したし、江上波夫氏は、十代崇神天皇は弁韓の支配者である辰王の後裔で、四世紀の始めに日本に来たと述べている。彼らは弁韓(任那)から倭国に乗り出してきて、いわゆる倭王という韓・倭連合王国の王になったことを意味しよう。これは、崇神天皇を代表とする天神族が、任那から筑紫へ進行したことともきわめてよく合致し、それらがみな同一の事柄を指すものであることが容易に認識できると述べられた。一説によれば、日本の天皇は十五代応神天皇から実在の天皇とされ、応神天皇も百済王氏が渡来して王位についたとみている。



『魏志倭人伝』の(まつら)国(松浦)・伊都国(怡土(いど))・()(那)ノ津(国の港)一帯に、縄文晩期の渡来者人が定着したとみられる。韓半島からすぐれた大陸文化を携えてきた渡来人は、この地方に定着して技術と生産手段を伝えた。そして、大陸文化の光と波を受けた人々は、やがて瀬戸内の沿岸にも畿内・山陰その他の地域にも次第に多きを加えるに至る。今も日本の経済を潤している瀬戸物は、陶磁器製造術を伝えた新羅系渡来人の残した貴重な遺産である。



特に、九州北部に定着した渡来人は、その地から豊前・豊後を通り国東(くにさき)半島を経、姫島の比売許曽(ひめこそ)神社から瀬戸内海の方へ東転して難波・河内に進み出る。そして、大和川を(さかのぼ)って奈良盆地にたどりつき、その地を「ナラ(奈良・那良・那羅)」と名づけたであろう。「ナラ(나라)」は韓国語での「国」の意である。当時の帰化人や渡来人は、王権の奉仕者でなく一つの勢力の中心となり、古代日本国家形成に大きな役割を果たしたとみる。これが飛鳥(明日香)文化時代の幕開けである。



あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり(万葉集 三二八)



韓半島からの渡来人たちは奈良をソウルとし、自分たちの建設した華麗な都を誇りとしかく賞賛した。あをに(青丹(あおに))は韓国語での丹青(タンチョン)단청)で、木造建築に五色の紋様を描いて美しく荘厳に装飾したものである。その歴史は先史時代に始まり、神に祭祀を行う時、祭壇や祭祀長の顔を飾ることなどから由来した。これは、見る人に神秘感を与え雑鬼を追い払う辟邪(へきじゃ)の意もあり、威厳と権威を表して三国時代に活発に流行した。青丹(岩緑青(いわろくしょう))の原料である顔料は真彩といって鉱物質を使うが、この青丹は奈良地方に多く出土する。



青丹の五色は五行の思想と関係があるという。すなわち青は東で竜であり、季節は春で五行は木である。赤は南で雀であり、季節は夏で五行は火である。白は西で虎であり、季節は秋で五行は金である。黒は北で玄武であり、季節は冬で五行は水である。黄は中央で季節は土用であり、五行は土である。丹青の五行思想には現世の康寧と来世の祈願が宿っているという。



飛鳥時代の大和朝廷では、百済の高官大爵をなんら抵抗もなく高位官職につけさせた。このように官職をためらいもなく勤め政務を円滑に(さば)くことができたのは、当時ともに韓国(百済)語を使っていたのではなかったのかという点と、朝廷の高官たちもまた同じ血統ではなかったのかという点が推定される。百済が滅ぶと大和朝廷は、祖先のお墓参りができなくなったことを悲痛に思ったという。



飛鳥(あすか)はもともと安宿(
アンスク
)
(アン)(スク))だったという。韓半島から遠こ程を旅して来た渡来人が、「安らかに宿る」ところという意味でつけた地名であろう。これが「アスク」となり「アスカ」となったとする。文字どおり飛鳥は、遠くから飛んできた鳥が安らかなねぐらを求めて居住地を決めたという意を含んでいる。



もう一つの論は、飛鳥の「飛」の訓は韓国語では「(ナル)()(飛ぶ)」の意であり、「鳥」の訓は韓国語では「()(鳥)」の意である。この「」と「」を合わせれば「(ナル)()」となり、韓国語では「夜が明ける」という意味、すなわち「明日」という意になる。このような表記は、万葉集に使われている「吏読(イドゥ)이두)」(注4)の一例であり、明日香の「香」は地名の古語であるとみる。



 



白村江(はくすきのえ)戦いと大和朝廷の対応



韓半島の高句麗・百済・新羅の三国は相変わらず互いに攻防をくり返していたが、七世紀の半ばにいたり新羅が唐と結んで百済を攻めた。唐が水陸十三万の軍を韓半島に送り込むや日本国内には危機感がみなぎった。三百年におよぶ百済とのよしみはもとより、半島南部が唐に侵略される直接の脅威を無視できなかったのである。



六六○年、新羅と唐の連合軍が百済の都・泗沘(サビ)城 (扶余(ブヨ))を取り囲んだ。百済



義慈(イジャ)王は難を逃れて古都(公州(コンジュ))の熊津(ウンジン)城によったが、やがてここも陥ち、七月十八日、王と王子は捕らえられて唐に送られる悲劇を迎える。このとき宮中にいた三千人の宮女が、宮殿のある扶蘇(ブソ)山の岩から白村江(白馬(ベクマ)江)に身を投じたという。小高い丘の上にあるこの岩は落花岩(ナクファアム)と名づけられ、今日も訪れる内外の観光客が後を絶たない。



鬼室福信(きしつふくしん)など百済の遺民らが挙兵し、日本に来ていた王子豊璋(プンジャン)を送り返すとともに大和朝廷の来援を請うた。斉明七(六六一)年、百済の出と思われる六十八歳の老女帝は、皇太子中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)とともに筑紫へ向けて出発した。七月二十四日、老齢の女帝が出陣先の筑紫でにわかに崩じたが、先発隊五千人が皇子を守って百済に向けて出発し、六六三年、救援軍二万七千人も船出したとある。斉明天皇または中大兄皇子の出陣を見送りながら、額田王(ぬかたのおおきみ)(百済の王族である鏡王の娘との説あり)が詠んだとみられる歌が万葉集にある。



熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万葉




八)



六六三年八月二十七、二十八両日にわたる白村江の戦いで、百済軍と日本軍は壊滅的な打撃を被った。この一戦で、百・日連合軍が羅・唐連合軍により惨敗する結末にいたるや無数の百済遺民たちが日本に亡命し、難波・近江地方を中心に定着した。百済郷・百済野・百済川・百済池などの地名が今に残るが、現在の大阪市生野区・東住吉区の大半がそれに該当する。大阪市の四天王寺は百済と関係がありそうだし、生野区一帯には百済駅の外に百済橋・百済市場・百済小学校などがある。



いつの世にも敗は次の時代にい影響と反動をおよぼす。この敗戦により新羅来寇の不安におびえた大和朝廷は、西海方面の防備を厳重にする必要に迫られた。鎮西の総括官庁としての大宰府は、それまで博多湾近くにあったらしご府楼を海岸線から内陸部の現在地に移した。敗戦の翌六六四年には対馬・壱岐・筑紫などに防人(さきもり)が置かれたが、防人には主に関東の兵があてられたようである。各地に烽火台が設けられ、大宰府と博多湾との間には大堤の水城(みずき)が築かれた。



からは王族や貴族をはじめ一般の人までが一千人規模で日本列島に亡命し、一部は 近江(滋賀県)・一部は東に定住を果たした。時の日本列島の人口は五○○万~六○○万人と推計され,受け入れの余地は十分にあっただろう。しかも聖太子以,中央集権国家の形成を目指していた日本は,中央の官僚制度の仕組みや運の仕方について亡命百人との交流の中からぶ点が少なくなかったとみる。朝廷は彼らに手厚い優遇措置を取り、彼らの持っている農耕技術を利用して東国地方の開墾と生産量増大を図った。万葉集に登載された防人の歌の詠み人は、この時集団移住させられた百済遺民たちの後裔であろう。 



同年八月、百済人などに命じて長門国に朝鮮式山城を築かせ、筑紫国にも同じく大野城や椽城(きのき)を築かせた。日本にある主な朝鮮式山城には、金田城・屋島城・高安城・鬼の城・石城山・御所ヶ谷・鞠智城・雷山(らいざん)神籠石(こうごいし)などがある。亡命した百済勢力によって築造されたこの山城の特徴は、長期戦に備えて築造されたもので渓谷を包括し、内部には食糧倉庫と武器庫や幕舎があり、有事のときは平野地帯の百姓たちがここへ避難し、長期戦に突入することが出来るようになっている。



雷山の神と崇められる天日槍(あめのひぼこ)は新羅の王子だといわれているが、これは個人の名前といったものでなく、矛(槍)や剣の神として祀る新羅系渡来人の集団であるという。その矛のほかに鏡や玉などを付け加えてもよく、これがいわゆる三種の神器につながる。なお、渡来人の中には必ずシャ-マンが同行するが、熊神籬(くまのひもろぎ)は神社の原型とみられている。



日本天皇家の朝鮮天神(韓神)を祀る新嘗祭(にいなめさい)は、新羅の天日槍王子が熊神籬を日本に奉じて来たことから、天符経の理念で始まった国家祭祀として今に受け継がれているという。天符経は、檀君(タンクン)(タン)(クン)=朝鮮<韓国>の開国神)開国神話の理念が盛られた聖典である。記録によれば、終戦前、全国から奉献された新穀を皇祖神祇にお供えする新嘗祭は、京城(現・ソウル)にあった朝鮮神宮でも行われたとある。



六六八年、中大兄皇子が即位して飛鳥時代日本の四十代天智天皇となる。中大兄皇子は、六四五年、乙巳(おつし)の乱を起こして蘇我一族(百済系渡来人木満致(モンマンチ)の後裔)を制圧し、大化改新の中心人物として日本の律令制の基盤を構築したし、官僚制と行政機構を充実に整備した主人公である。百済滅亡後はその復興運動を支援したし、即位してから新羅・唐との国交再開のため遣新羅使と遣唐使を派遣した。六六七年、唐からの攻撃を避けるため都を飛鳥から近江に移したが、これが琵琶湖の畔の大津



京である。だが、壬申の乱によりわずか五年で廃都となった。



四十三代元明天皇は勅命を下し、国内的に思想の統一をはかるために『古事記』の纂録を、四十四代元正天皇も勅命を下し、対外的に国威を現すために『日本書紀』を編纂させ、それぞれ七一二年、七二○年に完成におよんだ。古事記纂録に参与した稗田阿礼(ひえだのあれ)太安万侶(おおのやすまろ)は、百済系渡来人の後裔だと言い伝えられている。



 



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