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| 한국과 일본의 문화 |

제목: 三田渡碑に想う
분류: 한국문화
이름: 申鉉夏


등록일: 2020-08-19 14:31
조회수: 200 / 추천수: 36




(サム)(ジョン)()に想う



 



申 鉉 夏



                               



 去年仲秋節(秋夕(チュソク)=陰の八月十五日)の興行を目当てに企画制作された映画『南漢山(ナマンサン)(ソン)』は、一千万人を超す観客を呼び集めるほどの大好評を博した。映画館内での人ごみにもまれたことのあるわたしたち夫婦は、この映画を自宅でのテレビの有料番組で観賞することにした。学校教育において自国の歴史を学べなかった戦前派の筆者には、国史の知識を得る上で貴重な教材だった映画である。



わが国の屈辱の歴史である「丙子胡乱(一六三六~七)」をすなおに扱った映画『南漢山城』。この映画は、余計なものを付け足さずあるがままの事実を見せてくれていて、個人的には至って満足だった。李舜臣(イスンシン)壬辰倭乱(じんしんわらん)=文禄の役当時の朝鮮側の海将)の輝かしい勝利をおさめた歴史だけでなく、このような屈辱の歴史も事実そのままを観ることができてよかった。これもまたわれわれの知るべき歴史だからだ。



十七世紀の初め、満州(中国の東北部)ではヌルハチが(じょしん)族を統一し後金(こうきん)(後の(しん))を興した。当時中国全土を占めていた(みん)は、壬辰倭乱のときに五万余の軍隊を派遣して朝鮮(李氏王朝)を援けたが、徐々に勢力がおとろえた上に農民の反乱が起き滅亡の一途をたどっていた。そのすきをねらって起きた後金が力を養っているとき、朝鮮十五代王光海君(クァンへグン)は中立外交で明と後金との友好関係を維持した。



一六二三年、暴君の光海君を廃し十六代王位についた(イン)(ジョ)は、金を排斥し明と親しくするいわゆる「排金親明」政策をとった。その上、後金が占めていた遼東地方を取りもどそうとたくらみ、韓(朝鮮)半島北部に駐屯した明軍をひそかに支援したので、明と競争関係にあった後金はこれを不満に思っていた。たまたまその時、朝鮮では仁祖反正(失政の王を廃し新王を立てること)の論功行賞に不満を抱いた李适(イグァル)の乱が起きるのが、後金はそれを機に兄弟関係を要求し戦争を起した。一六二七年のいわゆる「丁卯胡乱」である。三万余の軍隊を先に立たせた後金が、鴨緑(アムロク)江を渡って黄海(ファンヘ)道まで侵入して来るや、仁祖は致し方なく後金と兄弟関係を結ぶことになった。



一六三六年、朝鮮には再び大きな試練が迫って来た。中国の主になろうとの野望を抱いている清の太祖ヌルハチが、朝鮮に君臣関係を要求し軍隊を率いて侵攻してきたのである。ヌルハチは十二万の大軍を率いて攻め入り、朝鮮をして恐怖のどん底に(おとしい)れることになる。これがすなわち「丙子胡乱」である。



清の大軍が攻撃してくるや、江華(カンファ)島への逃避行を清軍に阻まれた王と朝廷は、首都漢陽(ハニャン)(現ソウル)を守る要塞の一つである南漢山城に逃避する。当時ここには、五十日分の食糧と一万三千人の軍隊しかいなかったという。寒さと餓えに加え絶対的な軍事的劣勢の中で、清軍に完全に包囲された状況下においても、大臣達の意見もまた先鋭に対立する。主戦派と講和派の激烈な論争がこの映画の圧巻だった。



瞬間の恥辱を耐え国と民を守るべきだと主張する吏曹判書(朝鮮時代の官職、今の総務相に相当)崔鳴吉(チェミョンギル)らの主和(講和)派、清の恥辱的な攻撃に最後まで立ち向かって戦い大義を守るべきだと主張する礼曹判書(今の文部相に相当)金尚憲(キンサンホン)らの斥和(主戦)派。その間で国王仁祖の煩悶は深まり、清の無理な要求と圧迫はより強くなる一方、進退極まりない孤立無援の南漢山城に国運が閉ざされた。その中で四十五日間清軍と対峙(たいじ)して戦ったが、江華島に避難していた王族らが皆人質として捕らえられたとの報せが届き、仁祖はもうこれまでと清国への降伏を決意する。



南漢山城の戦闘は、軍事的には防御戦に有利な地形を選んだのだが、外部からの救援を期待するのが難しい孤立状態だったので、内外の連携作戦を展開することができなかった。その上食糧不足と戦意喪失により、最後まで城を守りきれなかった戦闘だった。ことここに至り、国王が城を出て降伏することを決定したので、朝鮮の朝廷は最後まで抗戦しようとした方針を放棄し、四十五日間におよんだ南漢山城の戦闘は終息されたのである。



一六三七年一月三十日、南漢山城を出た仁祖は、真冬の遠このりを三田渡((ハン)江の上流にあった渡し場)にいる清の太宗の前まで歩いた。そしてその場に清がしつらえた受降壇に(ひざまず)き恥辱の講和を結ぶことになる。そこで仁祖は降伏のしるしに三跪九(さんききゅう)叩頭(こうとう)(れい)をさせられた。三跪九叩頭礼とは、喪服姿で三度跪いて大礼をした後九度地面に頭をつつき、その音が壇上に座っている清の太宗の耳に入るようにする清の礼法である。これをしているうち仁祖の額からは血が流れたという。



そのようにして朝鮮は清の臣下になったし、降伏の代価として膨大な賠償金とともに昭顕(ソヒョン)世子(仁祖の長男)と鳳林(ボンリム)大君(次男、朝鮮十九代王)、斥和派の臣下たちと二十万人を人質として送った。そして受降壇のあったその場所に、一六三九(仁祖十七)年、清の強い勧めを断り切れず、朝鮮としては恥辱の歴史になる清の太宗の功徳を刻んだ碑を建てることになる。それがここでいう三田渡碑である。



余談ながら、一八七三(明治六)年、日本の特命全権大使副島種臣(そえじまたねおみ)(一八二八~一九〇五)が清の皇帝同治帝を謁見する際、清は大使に三跪九叩頭礼を要求した。当時日本は明治維新後五年しか経っておらず、国力が充実していなかったけれど、副島は最後まで粘って立ち敬意を表する立礼を貫徹した。それが清日(日清)関係の一つの型を決めたという。気概が国力に劣らぬ力を発揮した場合である。



俗に地名にしたがって三田渡碑、または清太宗功徳碑と称されるこの碑の正式名称は、「大清皇帝功徳碑」である。碑面には、清の太宗皇太極(ホンタイジ)(ヌルハチの第八子)が大軍を率いて朝鮮に攻め入った丙子胡乱の時、南漢山城に籠城していた仁祖が、三田渡に設けられた受降壇で降伏した事実を記録している。丙子胡乱に勝利した清の太宗が、自身の勝利を鼓吹するため朝鮮に要求し、一六三七年、朝鮮側によって建てられたとある。



碑文の内容を要約すると、「愚かな朝鮮王は偉大な清国皇帝に反抗した。清国皇帝は愚かな朝鮮王をたしなめて自身の大罪を納得させた。良心に目覚めた朝鮮王は自身の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。われわれ朝鮮は、この清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に反抗した罪を反省するためこの碑を建てることにする」、となっている。



この三田渡碑は、花崗岩でなった亀趺(きふ)の支台)、大理石で仕上げて立てた碑身、それに螭首(ちしゅ)(覆いの石)を備えているが、碑身と螭首は一つの石で成り立っている。四角い座台の上におかれた亀は、大変分厚くて重な感じである。亀の支台の亀の甲には、細い隆起を繰り返して四角い紋様を彫刻したし、碑座を中心にして伏せた一葉の蓮の葉を大きく浮き彫りにすることで、朝鮮時代の文士の通式を見せているとの説明である。



この碑は、朝鮮の悔日慕華思想(日本を蔑視し中国の文物と思想を欽慕(きんぼ)して従う思想)の雰囲気を憂慮する日本により地中に埋められていたが、高祖(朝鮮二十六代王)三十二年(一八九五)、清日戦争が終ってから復旧された。一九五六年、国恥の記録だとして当時の教育部(文部省)により再び埋められたが、長雨で漢江が侵食され碑身が露見されたので、一九五六年、今の位置に移され史蹟第一〇一号に指定されたという。



また一説によれば、元来は漢江のほとりの渡し場の受降壇のあったところに建てられたが、一八九五年、清日戦争で清が敗れ朝鮮との朝貢関係が途切れるや、河の中に埋めてしまった。だが、植民地時代の一九一三年、日本(朝鮮総督府)がこれを立て直したし、一九四五年、植民地から解放された後、住民達が土中に埋めてしまった。一九六三年の大洪水で再び姿を現してから何度かの移転を経、二〇一〇年四月二十五日、碑石の立っていた元の位置である石村(ソクチョン)湖から三十メ-トル離れた現在地に移されたという。



なおこの碑は、わが国では唯一、碑身の前後面に蒙古・満州・漢と三ヶ国の文字が刻まれていて至って特異である。すなわち碑身の前面左側には蒙古文字、右側には満州文字、裏面には漢字が刻まれている。このように蒙古文、満州文、漢文の三種類の文字で同じ内容を記すことにより、古字研究の貴重な資料として大いに利用されている。碑の全体の高さは五・七メ-トル、碑身の高さは三・九五メ-トル、幅は一・四メ-トルであり、重さは三十二トンだという。



映画『南漢山城』のおかげで、三田渡碑が寓居から地下鉄でわずか三十分の近くにあるのを知り、寒さの和んだ日を選び尋ねることにした。全世界で五番目の高さを誇るロッテタワ-(第二ロッテワ-ルド)に近い、ソウル市松坡(ソンパ)石村湖の西湖の丘に碑は建てられてあり、周辺はソウル市内でも有名な繁華街江南(カンナム)蚕室(ジャムシル)(朝鮮王室の桑畑・蚕室があったところ)である。暗い歴史が存在していたことを知らせるこの碑が、恋人や家族たちが楽しい時間を過ごす遊園地に、在りし日の悲劇をひそめたままひっそりと立っている。その日も周囲は閑散としていた。



つらつら想うに、わが韓(朝鮮)半島は、アジア大陸の先端にあたかも乳房のようにくっついている。その大陸の北方にはフンヌまたは匈奴族が、そして南方には漢族と言う強大な民族が陣取り、韓民族はいやがおうにもそれら勢力の影響をもろに受け生きて来ざるをえなかった。このような地理的条件からして、北アジアの文化と中国の文化を等しく流入させたという利点はあった。その反面、北アジアに強大な政治勢力が興るとその庇護のもとに置かれ、中国に統一王朝が出現するとそれに服従する外に民族の生きる道がなかった。



一方、海峡を隔てて東方には大和民族がいて、豊臣秀吉の他愛ない野心により、いわゆる壬辰倭乱・丁酉再乱(文禄・慶長の役)と名の付く倭乱を被ることになる。そして十九世紀の末から二十世紀の初頭にかけ、日本の大陸侵攻の足場となった半島は、ついには日本の植民地と化し、三十六年もの間桎梏の歴史をいやというほど味わった。



植民地になる前の清日・露日(日露)戦争においては、国土を戦争の場と戦争基地として差し出さねばならなかったし、民は戦争物資を運ぶ荷担ぎとして徴発された。強大国に取り囲まれたわが国は、われわれと世界の歴史を両目を開けてより冷徹に凝視すべきである。わが国に「くじらの争いにえびの背が裂ける」という諺がある。そこには地政学的条件・環境のせいで、列強国のはざまで苦しんだ民族の恨みが滲んでいる。



わが国は長い間地図から消されていた国である。世界の列強国が覇権をおいて角逐を繰り返していた二十世紀の初め、日本の植民地として辛酸を舐めてたことは前述した。今やその国が、「三十~五十クラブ」(一人当たり国民所得三万ドル以上、人口五千万人以上の国)の七番目のメンバ-である。それにも拘わらず、わが国は世界で唯一の分断国家のままである。われわれの悲願は夢にも統一である。



太平洋戦争末期の一九四四(昭和十九)年の暮、当時四十三歳の歴史担当S教諭に召集令状が下った。講堂で形ばかりの壮行会が開かれた際、告別辞の終わりにS教諭が発した次のことばは、植民地青年の心を揺さぶるのに十分であった。『たとえこの戦争で日本が負けたとしても、地政学的条件からして朝鮮は絶対に独立できない。』とのことである。「日本の敗戦」も「朝鮮の独立」も、当時としては口にしてはならぬ禁句だったけれど、それにもまして「朝鮮は独立できない」という(くだり)にわれわれは興奮した。



われわれは心の中で絶叫した。「先生!何をおっしゃいます。二千万以上の人口を保有する朝鮮、食料も自給自足でき地下資源と水産資源も豊富な朝鮮、日本より悠久な歴史と伝統文化に輝く朝鮮、教育も普及しているし愛国心とて劣らぬ朝鮮が、独立できないとはどういうことですか。われわれは必ず独立国家を建設してお見せします。」と心中息捲くった。だが悔しいけれど、日本の敗戦から七十有余年経った今尚、わが国の完全独立はいまだ遼遠のようである。



植民地から解放されて間もなく、次のような流言がまことしやかに巷に流布していた。「美(米)国を信じるな、ソ連(ロシア)にだまされるな、日本は立ち上がる、朝鮮は気をつけろ!」当時の美・ソ両国は、わが国を植民地から解放してくれた恩人であったし、日本は占領下で再建の道筋を模索していた。思えばこの流言は、新秩序下での攻守入れ替わった「くじらの争い」を予告したのだ。その後のわが国を取り巻く情勢は、これら強大国に新たに中国が加わり、強大勢力の角逐戦の場として常に緊張状態にある。「くじらの争い」は現在進行形である。



いうまでもなくわが国は、外交で領土と主権を守り通商で生きて行く国である。われわれはこの機会に、外交と国防にどのような基調を持つべきかを深慮すべきである。中国・日本に包囲されているようなわれわれの地政学的状況下で、われわれの生きて行くべき方向はいずこなのか。美・日・中など周辺国とはどのような関係を維持すべきかに対し、外交哲学の型を虚心坦懐に話し合うべきである。いずれにせよ外交の結果は国力を反映するものである。「丙子胡乱」も外交の不手際がその一因であったのだ。



三田渡碑!この碑が恥辱的な歴史の記録であるのに間違いはない。だからこそかえって、恥ずかしい歴史さえわれわれの歴史として認める、冷静で客観的な視線を整えるべきではなかろうか。



   2018年 如月



 



 



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