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| 한국과 일본의 문화 |

제목: 国境を越える人間愛
분류: 일본문화
이름: 조경식


등록일: 2013-02-15 12:46
조회수: 939 / 추천수: 126


国境を越える人間愛


   ―韓国孤児の母、田内千鶴子女史―


 


                                                        京植


            母が子供を愛するのは当然なことである。我が子だから、わしの倅だからである。これは人間の本能である母性愛だろう。ところが自分と何の関連も無いにもかかわらず


窮境に立った戦争孤児の世話をしながら崇高なる一生を終えることは人類愛といえるのではないだろうか。


韓日間の最も痛かった時期であった日帝時代、特恵者であった日本女性として、卑賤な朝鮮の孤児たちを助けるのに気軽に立ち、韓国の孤児の母の役をためらいなく受け持ち、国境と民族を越えた人道主義的愛を実践しながら、韓日友好にも至大な功績を残した田内千鶴子女史は、自身はついに過労と病魔に倒れ、幽冥を異にした。ここに 韓国の孤児の母ともいわれる故田内千鶴子、韓国名・鶴子女史を紹介する。


一九一八年、当時七歳だった田内千鶴子は、四国高知県から朝鮮総督府官吏として全羅道木浦市に赴任する両親について韓国に来た。彼女は木浦女子高等学校を


卒業、木浦貞明女子中学校の音楽教師として勤めていた。


一方、一九○九年、全南平で生まれた致浩は、 韓国で宣教活動をしていたミウリというアメリカの女子宣教師を助け、熱心を伝道活動に手伝ってきた。それが因縁となり、ミウリ宣教師が韓国での七年間の任期を終えて帰国する際、ミウリの推薦により、致浩はソウルのピオソン聖書学院に入り、そこで聖書を勉強、卒業後伝道師資格を獲得する。


彼はすでに神の召命を受けたのか、一九二八年十月十五日、木浦市竹橋洞に公生園という立て札を立たせた。一九一○年、日本の強制併合で、土地調査事業により、無知蒙昧な良民たちは数千年耕作して来た土地をいきなり奪われ、故郷を離れなければならなかった。家族が離れ離れになった家庭も数え切れないほど多かった。致浩伝道師は、誰も目もくれず当て所も無くさまよう孤児七名を集め、共同生活を始めた。彼は聖書学院で学んだ聖書理論と、生まれつきの雄弁術で道ばた説教をしたり、物乞いもしながら公生園を大きくしていった。それから四年後、ついに木浦市から社会福祉事業体としての事業認可も受け取った。その後だんだん世評を聞いて訪ねてくる


孤児たちも増えて、篤志家の後援も受けながら公生園も移した。ちょっと広い場所に移して敷地を整えるころから、増えてゆく園生たちを一人で面倒をみるには手に余るので、園長は園生たちを世話する保母と、日本語を教えるボランティアについて、木浦女子高等学校在職の高尾先生と相談した。すると高尾先生は自分の弟子で、貞明女子中学校に勤めている田内千鶴子先生を推薦してくれた。田内千鶴子先生は当時、貞明女子中学校の音楽教師として在職中であった。






 



田内千鶴子先生は恩師の推薦により、初めて知った公生園を暇あるたびに訪ね、園生たちに日本語を教えたり、音楽を教えたりした。千鶴子先生は園生たちの燃える


向学心に感銘を受けた。先生は悩んだ。深く考えた。


そして心を決めた。切実に自身を必要とするところは


貞明女子中学校ではなく公生園であることを。


千鶴子先生は貞明女子中学校を決然とやめて、公生園の保母として、また先生として専念することを誓った。


千鶴子先生は園長と呼吸を合わせているうちに目を


澄まして見ると、透徹な信仰心と園生たちに献身する園長の人柄に魅了された。あのように熱心に努力する園長を誰かが


助けなければならないのに‥‥。千鶴子先生は決心する。そうだ、私が助けなければならない。彼女は園長の求婚を受け入れることに決心する。その間、園長からまじめに持ち出された求婚を真剣に考えて来たものだ。結婚までは坦々ではなかった。


両親の反対は予想されたものの、韓国人との結婚自体を許せないところへ、乞食親分との結婚を素直に認めるはずはない。尚且つ日本人社会での反対も耐えられない苦しみであった。


しかし自分の人生は自分自身の責任である。


一九三八年十月十五日、二人は周囲の反対を押し切って結婚式を行った。千鶴子二六歳で致浩二九歳であった。その日はちょうど


公生園設立十年目の慶事でもあった。


一九四五年八月十五日、ついに韓国は解放を迎えた。こちらの日本人たちは韓国人のテロでもあるのかとそわそわしながら、帰国を急ぎ大騒ぎでいたが、千鶴子女史は園生たちが、こんな終戦の混乱期に荒らされて、動揺するのではないかと心配で堪らなかった。


園長は妊娠中の千鶴子と終戦で一人帰国に慌しい実家の母親が気になり、実家の母親と一緒に高知県への帰国を誘った。結局、彼女は母親と二人の子供と一緒に重い身をひっさげて四国高知県に帰った。しかし彼女は韓国の孤児たちが


気になり堪らなかった。ついに一年足らずしてに二人の子供をつれて再び公生園に戻ってくる。


一九五○年六月二十五日、韓国動乱が起きた。


韓国動乱の時期が千鶴子女史として一番堪え難い試練の時期でもあった。この戦争の渦巻きの中で行き先も


なく押し寄せて来る数多い戦争孤児たちを是非もなく受け入れることであった。


ところで、青天の霹靂ともいうか、三○○名も超す園生たちの、すぐさま必要な食糧を求めて東奔西走していた園長が、道知事を訪ねて光州へ行ってから、行方不明となったのである。しかし千鶴子女史は、主人を心配することより急なことは、園生たちを如何にして飢えさせることなく育てるかであった。家長を失う悲しみで、涙ぐむ暇さえなかった。一時四○○名以上に増えたこともあった園生全体の生存の問題であった。


朝から晩まで目が廻るほど戦争のようであった。悲しむことなんかは贅沢かも。弱い女性の身としては、堪え難いことであった。しかし、鶴子女史は勇気を失わなかった。園生たちのことを考えたら力が湧いた。主人の分まで努力しなければ


ならなかった。


障害もあった。特に日本出身の身として受ける侮辱と冷遇。ある聖職者の裏切りまで堪えなければ


ならなかった。幸いに、かなりおとなになった卒園生何人かが力を合わせ献身的に助けてくれたので、やっと無事に逆境を越すことができた。


一九五四年五月、韓日正常会談のため、韓国の対日感情が悪化していて、日本国民も韓国のイメージがよくなかった時期に、田内千鶴子(韓国名、鶴子)園長は、公生園の総務で、長女清美の夫でもある鄭永(津南浦で南下、戦争孤児として公生園で苦楽を共にしている青年)と共に母国日本を訪問した。自分が直接書いた趣旨文を財界や政界の各界各層の人たちに、自身は韓国が第二の母国であると紹介しながら、 公生園の孤児たちは自分が生んだ子供と同じであると訴えた。そしてその間の自分の韓国での生活を紹介した。


同年十月十七日に、日本の経連団の副会長(当時)、植村甲午郎さんを会長とする「田内千鶴子激励会」が発足した。


一九六三年八月十五日、光復節に金容寛道知事の招請状を貰った千鶴子園長は、抗日学生運動の発源地である光州西中学校校庭で行われた光復節記念式場で、鶴子園長に功労勲章が与えられた。これは政府樹立後、外国女性に与える最初の勲章でもあった。この事実がマスコミに載って国内外に報道されると、日本の各マスコミでも大々的に報道することになり、韓国に対する理解度が低かった日本の朝野は勿論、日本国民の関心を引き起こすことになった。 


一九六六年、鶴子園長は長男の基がソウルの中央神学(社会福祉科)を卒業するや、彼と共に再び母国訪問に出かけた。当時、日本のNHKの朝の番組に出演、韓国を理解するためについて話し合い、また公生園に関する写真を紹介しながら後援を訴えた。


日本の有数な社会事業体の一つである東京の日本社会事業館の「中央共同募金会」内に一九六四年発足した「田内千鶴子激励会」の連絡事務所が設置され、また千鶴子の故郷である高知市にも後援会が発足するなど、より積極的な後援運動が展開された。


一九六七年五月十三日、鶴子園長は、大阪にある有数の社会福祉機関である博愛社と姉妹縁結式のため日本へ行き、式を終えた後、いきなり倒れ、まっすぐソウルの聖母病院に移され入院した。実は若い時肺炎を病んだことがあって、ソウルのセブランス病院に入院、肺腫癌手術を受けたことがあった。 


韓・日国交が正常化された(一九六五年六月二十二日)二年後の、一九六七年十一月二十四日、日本政府閣議で、木浦市にある公生園の鶴子園長に藍綬褒章を授与することに決議、一九六七年十二月二一日、日本政府は藍綬褒章を当時、駐韓上川日本公使を通じて、聖母病院に入院している鶴子園長に授与された。患者には大変な慰労になったであろう。


一九六八年九月まで入院していた園長は、徐々に衰えている自身の命を予感でもしたのか、十月に入ると、病院当局と側近の引き止めにも拘わらず公生園に戻り、自分の五十六回の誕生日である十月三十一日、“梅干が食べたい„との一言を残して、韓国の孤児の母として波乱万丈の生を終えて永遠の安息所である天国に旅立った。


公生園は、韓国は勿論、特に母国日本の各界各層の後援のおかげで、いま公生福祉財団に発展している。


 


ここに、公生園と小淵恵三元総理との一話を紹介する。


一九九九年、木浦の公生園と田内千鶴子園長の活動、すなわち、田内千鶴子女史の韓国動乱中の厳しかった生活ぶりと、韓日、日韓間の修交を前後にして、母国日本を往来しながら韓日・日韓の架橋の役割を果たしてきたことの内容をテーマに、ドキュメンタリー映画が作られ、放映されたのだ。その映画の収益金は全部公生園に寄付されることになったそうだ。







この映画を見た、当時の総理、小淵恵三氏は、深く感銘を受けたらしく、木浦の公生園に直接電話を掛け、


“TVでドキュメンタリーみました。母親の立派な


活動には感動しました。一度公生園に寄ってみようと


思います。その時までがんばってくださいよ„と


激励してくださった。まだ若い二○代で未婚の


緑園長は、電話の主が日本の総理であることを知って、びっくりした。その後、緑園長と総理との間に幾度かの書信を交わしたことも


あって、緑園長が訪日の際、総理を直接拝見する機会も持たれた。その時、総理は自分の故郷である群馬県の梅の木を公生園に


寄贈したいと約束した。それは鶴子園長が、亡くなる直前、梅干が食べたい、との話を覚えていわれたのであろう。


二○○○年三月、小淵総理は約束した梅の苗木二○株を公生園に送って


きた。しかし、不幸にも小淵総理は次の四月、脳梗塞でたおれて亡くなった。総理は享年六十三歳であった。


その梅の苗木は、故田内千鶴子女子の記念碑の周囲に植えられている。               


               

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