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| 한국과 일본의 문화 |

제목: 童謡劇『月の砂漠』(2)
분류: 한국문화
이름: 申鉉夏


등록일: 2020-09-08 13:33
조회수: 94 / 추천수: 4




一九四五(昭和二十)年四月、教育動員で母校に配属された「K」とわたしは、すでに青年期に入り身分も教員扱いだったので、大人同士の付き合いをするほどになっていた。出征教員の穴埋めとしての臨時教員が多い中、わたしたちは正規の師範学生としての矜持を持ち、教材研究や授業の効率向上に力を注いだ。そのようなことからしてわたしたち二人は、打ち合わせのため顔を合わせることが多かった。室内で会う時は窓を開けておくなど気を配っていたが、それでも安心できなかった日本人U校長は、わたしたちへの監視の目を光らせていたのだった。



監視役だった教員の後日談によれば、校長から言いつけられた監視項目は、



1.わたしたちが男女間の交際をしてはいないのか、



2.二人の思想関係に疑わしい点はないのか、



3.二人とも日本語を常用しているのか、



などだったらしい。わたしたちが動員で配属される二年前、当校に在職中の男女教員が駆け落ちをし、村中を大騒動に巻き込んだ事件があった。時の温厚かつ有能だったN校長は、部下への監督不行き届きの責を負い、道西部の奥地に左遷された事件である。



そのような状況下でのある日、廊下を歩いていたわたしははたと足を止めた。太平洋戦争末期の当時、勇ましい軍歌だけが校内で歌われ、歌曲は女々しいと堅く禁じられていたのに、彼女の教室から『月の沙漠』のメロディ-が流れ出るではないか。すぐ教室に駆け込み歌うのを制しながらも、「ああ、君もこの歌が好きだったのか!」と思うと、こみ上げる愛おしさに胸がときめくのを覚えた。それが彼女への恋心の芽生えだったのだが、言い出せぬまま別れの日を迎えることになる。



父から「土曜の午後実家に戻るように」との伝言があり、またお見合いの話かと進まぬ気で戻ったわたしは、両親の前で思いもよらぬ事実を明かされた。それはお見合いの話などではなく、学校に呼び出されたわたしたちの父親が、息子や娘の生活指導監督を強めるよう、校長に厳重注意されたとのことだった。最後に父はこう締め括られた。「お前ももうその年になったから、男女間の付き合いがあって当然だろう。だが、何があっても最後の線だけは越えるな!」と。「最後の線…?」その意を解せなくはなかったけれど、その場で反問するのもひかえられ、いまだに疑問符が付いたままである。
 



日本の敗戦により動員から解かれたわたしたちは、それぞれの在学校に復帰することになった。思いもよらぬ民族解放の大激流の渦の中、他意による国土分断と理念対立での思想闘争、極度の社会混乱の中での卒業・就職・進学など、わたしたちの前には越さねばならぬ難関がいくつも重なった。そのうち東西冷戦のあおりで韓国戦争が勃発し、生死を賭けた激戦に巻き込まれたわたしたちは、互いを想う暇などない過酷な日々を送っていた。かくして彼女とは自然に無沙汰となり、互いに平行線をたどる人生を送ることになる。  



一九六五(昭和四十)年五月、紆余曲折の末に韓日会談が完全妥結し、それまで断たれていた国交が正常化された。一九六八(昭和四十三)年四月、国家公務員として日本国勤務を命ぜられたわたしは、信濃毎日新聞社のご協力で恩師のご家族と連絡が取れ、休暇を利用して長野県須坂市のご自宅を礼訪した。尊敬して止まなかった恩師A先生は、一九四四〈昭和十九〉年の秋、フィリピン戦線で華々しく戦死なさり、二人のお子様をお抱えの奥様が、寂しく留守宅を守っておられた。



陸軍伍長の軍服を召されたご遺影の見下ろす部屋で、遺品の中から卒業アルバムなどをさがし出し、夜を徹して「礼安」の思い出を語り合った。ふとアルバムの中から彼女を見つけられた奥様が、「あら、お姫様だわね!あの『月の沙漠』の演劇は大好評だったわよ。そして、王子様とお姫様お二人は、とてもお似合いで評判だったのよ。」と、嬉しそうに当時を述懐なされた。村中を大騒ぎに巻き込んだ学芸会から三十年、やっと公正で客観的な評価が下されたように思われた。日本アルプスの高い山陰が窓外を流れる帰路の車中、在りし日の彼女の面影が車窓に映し出され、心の片隅に潜んでいた愛おしさが蘇った。



一九七〇年代後半から日本では、韓国旅行が一大ブ-ムを起こしていた。韓国旅行から帰った中堅企業の役員会で、観光ガイドのことが土産話の話題となった。端正な中年女性で日本語がとても上手く、親切なガイドを受けたと名刺を見せられた。何とそこにあるのは彼女の名前ではないか。わたしは一瞬目の前がぐらついた。「彼女が観光ガイドだと?まさかそんなことはあるまい!」と、心の中では強く否定しながらも、気持ちは決して穏やかでなかった。ガイドという職業がどうのこうのではなく、「裕福に暮らしているはずの彼女が、いや、裕福に暮らしていなければならぬ彼女が、職業戦線に飛び込むことなどあろうはずがない!」わたしは一人で息まいた。



一九八〇年代後半、韓国の大学で講義をしていたわたしは、同郷の同僚の話から彼女への謎が解けた。名門の京城女子師範学校を卒業した彼女は、教職に就いているうち銀行員と結婚したが、夫君が難病を患いいとも早く夭折した。訳あってお子さんが生めなかった彼女は、孤児院から女児を貰い受けて育てながら、ソウルに留学する実弟たちの世話をしていた。そのうち「下宿屋のおばさん」役も終わり、娘さんも大きくなって時間的余裕が生じたので、家計の足しにガイド職を選んだそうである。



早速彼女宛に長文の手紙を書き送り、ぜひともお逢いしたいと切々に申し込んだが、何年経ってもなしのつぶてだった。後に彼女との電話デ-トで知ったのだが、わたしの手紙をもらった彼女が、女子師範同窓の何人かと相談したところ、「この手紙は恋文だから絶対に応じてはいけない」と、きつく忠告されて黙殺したとのことである。「わたしが自分で決めるべきだったのに…」と、当時を振り返って後悔していた彼女だったが、戦前に女子師範学校教育を受けた彼女たちが、今もって堅持している道徳観がうかがい知れた。



地方の大学を定年で退いたわたしは、息子が設立した小さな会社の経営を任され、ソウル近郊に居を移すことになった。偶然にも弊社の入っているビル内に、彼女の娘さんの運営する美術教室があるではないか。夫君を交えての長時間の話し合いがあり、彼女との対面を望む本意を理解した娘さんは、「体が不自由になってからの母は、厳しかった昔とは違い淋しがり屋です。どうかよろしくお願いします」と、彼女の現状を包み隠さず話してくれた。



娘さんが話してくれたところでは、彼女がガイド役を務めて何年目かのある日、脳卒中で倒れて右半身が不自由になった。入院治療を受けたが回復の見込みがなく、漢方薬を服用しながら自宅療養に移ったが、病状は良くならず極端に体重が増えてきた。今は室内でも車椅子に頼っているけれど、幸いに言語障害は軽いほうだと言う。わたしが願う彼女との対面に対しては、「今の母の姿は、先生が思っておられるような昔の姿ではありません。出会われて失望なさらずおあきらめください」と、懇請するのには同意せざるを得なかった。たってのお願いを叶えて上げられず申し訳ないけれど、昼間は無聊な時間をもて余しているので、お電話はいつでもよろしいとのことだった。



わたしからの電話を受けた彼女は、すでに娘さんから聞かされているらしく、待っていましたとばかりに喜んでくれた。「長らくご無沙汰しました」と詫びを入れた彼女は、贈ってもらった「日本のうた一〇〇選」のCDの礼を述べ、『月の沙漠』は子守唄のように聴いていると話した。そして体の不自由な状態を詳しく述べ、電話をよこすときの要領などを教えながら、昼間ならいつでもよろしいと付け加えた。こんなに容易く電話デ-トができるのに、こんなに嬉しく電話を受けてもらえるのに、今までの無沙汰が嘘のように思えてならなかった。



はばかりなく話し合えるようになったわれわれは、主に故郷や学窓時代の思い出などを語り合ううち、彼女の教員生活と結婚生活に話が及んだ。祖国が解放された後上京し、名門の女子師範を卒業して教職についた彼女は、進学を強く希望し準備を整えていたところ、父親に銀行員との結婚を強いられた。その後のことはすでに知っての通りだが、父親に対する恨みはただならぬものがあり、それが脳卒中の原因の一つだと思っていた。わたしは慰める言葉も見当たらず、ただ相槌を打つ役しか果たせなかった。



彼女の記憶力はちっとも衰えていなかった。わたしと成績の一、二を争った学窓時代のこと、わたしが悪さをして先生から叱られる時の様子、学芸会で童謡劇『月の沙漠』を共演する際,弟以外の男子と手を取り合った時の恥かしさ、その後、級友たちにいじめられるわたしを見て心苦しかったこと、教育動員で共に母校に配属された時の充実感、突如『月の沙漠』の歌を止められた時の驚き、そして、父親たちが日本人校長に呼び出されたことなど、わたしの記憶と少しも違わず明確だった。動員から復帰するようになった時、是非一度逢って話し合いたかったけれど、電話はないし人目もはばからねばならぬ時代、未練を残したままの上京だったと述懐した。



室内でも行動がままならぬ彼女だったので、電話をかけるのはいつもわたしの方からだったが、何かの事情で通話が滞るときなどは、とても淋しかったと素直に訴えていた。学窓時代を語る時の饒舌さに驚かされたり、不意に感傷的になる彼女をなだめたりしながらも、一目でも逢いたいとの思いは断ち切れなかった。今になって振り返れば、国民学校を卒業してからこの歳まで、彼女を想う心に少しも変わりはなかった。



電話デ-トの幸せが三年あまり続いたが、彼女が再び倒れて入院したため、六十有余年目にやっと叶えられた交わりは、いとも空しく終わりを告げられた。娘さんとの約束で病院へ見舞いにも行けず、ただ茫然と快癒を祈るだけのわたしに、入院から数日が経って悲しい知らせが届いた。在りし日の面影を思い浮かべながら、彼女の手の温もりがいまだに宿る掌を合わせ、「安らかに眠りなさい」と祈って上げた。逝く前に一目でいいから会いたかったのに…。彼女の殞命を知らされたその時、永久に帰らざる旅路に立つ彼女が、なぜあれほど身近に感じられたのだろう。



葬儀を終えて訪れた娘さんによれば、わたしの贈った『月の沙漠』のCDは、お棺に入れて合葬したとのことだった。あの世でも聴いてもらえば幸いである。事の次第を告げて立ち去る娘さんの顔には、重責を果たした後の安堵感が漂い、心なしか肩に安らぎが宿っているように思えた。自分を生んでくれた親が誰とも知らず、自分を育ててくれた養母とも永遠の別れを告げた娘さんは、わたしとは親戚同士のような間柄である。



年明けの正月初七日、彼女の三回忌の法事が無事に終ったと告げられた。「もうわたしには構わないで…」とことわり、過ぎにし日の追想に耽っているわたしの瞼に、あの学芸会の懐かしい光景が浮かび上がった。手を取り合って歌ったお姫様は逝って久しいのに、童謡劇『月の沙漠』はいまだに上演中である。



    



二〇一六年 春まだ浅き如月



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